「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5:16-18)
私がこの聖句を知ったのは、長女が嫁ぐ時に、今は亡き母が色紙に書いて贈った一句で、今は私の愛唱聖句の一つになっています。
私は長年、医療職に携わり、職場と家庭(子育て)を両立させながら走り続けて来ました。両立していくには厳しい勤務体制で、当時両親に無理にお願いし同居してもらい、手助けを受けながら定年退職を迎え、家庭に戻りました。
同居して分かったことですが、両親の会話はいつも穏やかで、クリスチャンだった母とあの短気だった父が母の影響だったのか、自ら受洗し、毎日曜日バスで不老町教会に通い礼拝を守っていたあの姿、「花」をもって当番の奉仕を黙々と続けていた2人の姿は今も私の脳裏から消えることはありません。
私自身、幼少時代の教会学校との出会い、両親との同居は少なからずキリスト教の影響を受けていたと思います。当時の私は仕事と家庭を守ることが精一杯で、両親の生き方に憧れつつも私自身には何か遠い存在にしか捉えていませんでした。
そのような中、次女の希望もあり2人で一緒に洗礼を受け、クリスチャンとしての第一歩を踏み出すことになりました。「私が主イエス・キリストを選んだのではなく、神が私を選んでずっと導いて下さっていたこと」を素直に受け止め、感謝の気持ちでいっぱいになりました。
その後、両親が相次いで昇天し、キリスト教の葬儀を身をもって体験、「み言葉と讃美歌」によって安らかに召されていった告別式は、残された私どもにとっても大きな慰めであり、家族が、兄弟が、親族が、真の人間としてのこれからの生き方を教えられたような気がしました。
その後、癌を患い余命数か月と宣告された夫が病床受洗へと導かれ、受洗4日後に安らかに召されていきました。
今は、夫の親族とも心の通った会話、安らぎの中に感謝の気持ちを持って今まで以上に交流が続けられていることに、素直に喜んでいます。