私が教会に来るきっかけは、三浦綾子さんの著書「愛すること信じること」を手にしたことからでした。まだ、学生だった頃、先輩と本屋へ立ち寄った時、「君なんか、こんなの読んだらいいんじゃないか。」と勧められ、読み始めました。
当時、私は父、母、弟と4人家族でした。外側から見れば、何の問題もない、ごく普通のどちらかといえば恵まれた家庭でした。
しかし、両親が共働きで、朝早くから夜遅くまで仕事に追われていましたので、夕食はいつも弟と二人で食べていました。家庭の団欒というものを、ほとんど知らずに育ちました。
三浦綾子さんの本には私の知らない暖かい世界が描かれていて、衝撃でした。単純に、「こんな風に生きられたらいいなぁ」と憧れのような思いを持ったことでした。
同じクラスに熱心なクリスチャンがいて、教会の女性の集会に誘われて、初めて教会を訪れました。二十歳の時でした。
とても惹かれるものがありましたが、毎週日曜日に教会に行くなんて私には無理、と思いました。また、心の中に重いものがあって、それが明らかにされるのが怖くて、彼女から幾たびも教会に誘われましたが、何か困った問題が起こると、教会に行き、牧師先生に祈っていただき、解決が与えられると、教会に行かない、そういった繰り返しでした。
二年後の夏のある日、私は人生の岐路に立っていました。自分ではどうすることも出来ない思いを抱えて。彼女は、そんな私の手を引きずるようにして教会へ連れて行ったのです。
教会では伝道集会が開かれていました。始めから終りまで涙を流している私に牧師先生は近づいて下さり、黙って話を聞いて下さいました。そして、「私のあとに続けて祈ってね。」と。
この日、私は自らの罪を告白をし、イエス様が私の罪の身代りに十字架にかかって死んで下さったことを信じました。私の心の中にあった重いものは取り除かれ、新しくされました。しかし、「これからはちゃんと生きよう、自分の力で」と、教会に行き続けることはしませんでした。
一年後、彼女に教会に来るように誘われて、私はきっぱり断りました。彼女が帰ったあとで、私の心になぜか変化が起きました。「私のような人間は教会に行かなければいけないんだ。」と、強く促されたのでした。そして、自分の意志で教会に行くようになり、洗礼の恵みにもあずかりました。
洗礼を受けてから、24年の月日が流れました。もし、イエス様を信じて救われていなかったら、私はもはやこの世にいないかも知れない、いたとしても、目に見えるところは装っていても心の荒んだひどい生き方をしているに違いないと、思うことです。
主の憐れみにより、罪(神様から離れた生き方)から救われて、こころ豊かに生かされている恵みに感謝しています。